ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ
西行の歌です。「山家集」に載っている、あまりにも有名な歌です。花の歌の、代表作といっていいでしょう。
「そのきさらきの もちつきのころ」とは、釈迦入滅の時期をさすといいます。そのころに死ぬのが西行の理想だった。だから、わざわざ「その」をつけています。実際に、彼はその時期に死んだそうです。
この歌だけを読んでも、本当に意味するところは、私にはわかりません。
こういう表現は、あまり好きではないのです。背景にいろいろあって、それを知らなければ、作品を味わえないというのは。
私には教養主義に感じられます。
古典にはそういうものが多いようです。だから、教養人が、古典を好むのでしょうか。
素直に読んで正しく感じられる作品。そういったものを作りたいと思います。
ただ、釈迦入滅と限定せず、人にはさまざまな「その」があるのだから、詠む人の「その」、思いをそこにこめていい、というなら話は別です。つまり、作り手と詠み手の違い。さらに、読み手と詠み手の違いもあります。詠み手は自分を出します。詩唱者です。読み手、ここでは鑑賞者をさしますが、その人は、作り手の心を探ろうとします。私は、詩唱者です。
そのような、自分を出す詩唱が、できないでしょうか? 古典に対して。
現代短歌を詠みたい気がしますが、古典でじゅうぶんであり、じゅうぶん過ぎるほどです。古典を現代人として鑑賞する、現代人が鑑賞できる古典にする。それができるかどうかが、詠み手の力だと思います。
願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ
どう、詠めますか? (これは私への問いかけです)
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