「花魂 HANADAMA」まで、あと、約20日となりました。本格的準備期間の、最初の10日が過ぎました。「ヤマビル」の詩を書いたり、日々花いけをするなど、試行錯誤してきました。この間に夏は過ぎ、秋の気配が強まっています。現在、思っていることを書きます。
A) 私が観客、聴衆である時、どんなことでも観て、聴こうとします。役者、演奏者とはまったく違う意識でいます。幕の垂れ具合も、楽譜の折れ目も、興味の対象となります。台詞をとちり、演奏をミスし、といったことすら、忘れ難い記憶となり、その場の刺激となります。そつのない舞台より、そつのある舞台の方が、記憶には残ります。--記憶に残ることだけを問題にすれば。演じ演奏している側と観て聴く側とは関心の向き方が違います--つまり、舞台の人々が生きている姿に、客席で生きている私が反応しているのです。生きていることが、最大のテーマであり、最も大切なことです。ボッサの舞台で私が沈黙し、言葉が出ず七転八倒し焦る姿すら、観ていただくものとなります。--楽天的に考えているわけではありません--また、私ひとりではなく、上野雄次さんがいて、花いけをしています。お客様は、退屈しないでしょう。安直に、上野さんに頼り切る意味ではなく、信頼しあうという意味で、彼と一緒に舞台にいて、生きていればいいと思います。もちろん、お客様に、うまくコラボレーションできていると思っていただけるかどうか。それは別問題です。緊密にからむ、そのための緊張感は保ち、時に激しく、時に穏やかに、時間を過ごしたいと思います。
B) 私の詩は、一般的な詩らしくありません。詩というより、ショートストーリーのようだといわれたことがあります。物語のような詩です。散文詩を、まず好んだことも、今のスタイルが生まれた理由でしょう。それでいいと思います。詩とは何か、どこまでが詩で、どこからが小説であるなどという議論に、時間を費やしたくありません。木部の書いている詩は詩ではないといわれてもかまいません。書きたいスタイルで、書きたいことを書いているだけです。詩人によっては、朗読すること自体、嫌だという人がいるでしょう。私は声に出さなければ完成しないと思っています。まったく価値観が異なります。
そう思うからには特に、ゼロから発する言葉ではありますが、ボッサで口にする詩は、私らしい物語詩でありたいと思います。ただ一言、「雨が降らない」でもいいのです。想像力を喚起する言葉、想像力を喚起する物語を、口にできればと思います。
「花魂 HANADAMA」の準備を始めて以来、「ヤマビル」の詩が書けないと悩んでいますが、ボッサの舞台で口にしていけばいいのではないでしょうか。ボッサの舞台で口にしたものが、「ヤマビル」の詩だといっていいかもしれません。とにかくじっくり、一言、一言、大事にしていきたいと思います。
立板に水のように詠むなど、嘘です。楽譜でいえば、一小節ずつ、確かめながら発声していきたいと思います。自分が理性的だと思うなら--理性的ではありませんが--、自分なりに理性的でいればいいのでは? 何かに憑依され、言葉が後から後から湧いて出るなど、私ではありません。ぽつりぽつり、一語発して、その言葉を確かめ、新しい次の言葉を発する。コンピュータに向ってしていることを、肉体ですればいいのです。
出来合いの詩は、なるべく詠まないこと。よほど即興的に、詩を破壊できるくらいならいいのですが。そのために、どこかの場面で、カットアップ手法を採用したいと思います。
舞台に持って出てゆくもの、上野さんが花材というなら、私は詩材ですが、それは一日ごとに、最小限のものとします。
C) 小石、ギター、紙と、音の出すものをいくつか用意したいと思っていました。目下、採用できるかなと思っているのは、紙だけです。楽器としての石の使い方は、もちろん自由でいいのですが、すでに多くの人が、原始時代から試みていることです。ギターはいわずもがな。どちらも多くの人が使っおり、それらを使ってすばらしい即興演奏ができるならいいのですが、目下、その力はありません。それに対して紙は、私が最も親しい、音の出る素材です。破けば音がします。そこには文字が書かれてあり、書かれてある出来合いの、整然とした文字の連なりを、私は破ることで拒否します。いかにも、というシンボリックな行為であり、そういう思わせぶりは好きではありませんが、とりあえず、いたします。破る音に期待できますが、それよりも、カットアップ手法のために破ります。紙をちぎって、言葉の断片を拾い集めて詩を作るカットアップ。言葉の断片が偶然に組み合わされ、つながって、私の意思を超えた意思が生まれるでしょう。そこには意味から解放された、純粋な、言葉の力があるかもしれません。
カットアップは、おもしろいと思いながら、これまで私はして来ませんでした。これからも、しようとは思いません。やはり、理性的でいようとしているのです。頑なでしょうか? しかし頑なであるのも私です。それならば、そこで愚かになればいいと思います。
D) 雑音でも下水の音でもお客様の咳でも、その場で聴こえる、あるいは気にとめる何かに反応して言葉にできるか、というテーマがあります。私は上野さんに反応できるでしょうか。
上野さんに、発しようとして発する音はありませんが、これまでの経験では、実にさまざまな音があります。花を切ったり生けたりする、がさごそだけでも、非常に強い音です。仮に音を出すまいとすれば、音を超えた強い気配を、彼は生むでしょう。それに反応したいと思います。そして、はっきりした音を、声を出すのは私であると、自覚いたします。
上野さんから私への働きかけは可能だろうかと思います。コラボレーションしている意味、形を、どこかで表現したいと思います。例えば、上野さんが私に花を生ける、というようなこと。仮にそれが実現したとして、私は上野さんの花いけに、どう反応すればいいのか。理想は、上野さんの花を見て、その場で詩を詠むことですが、できるでしょうか? 単なる描写ではつまりません。花いけに反応した、まったく別の言葉、ビル街の風景とか、男と女がいる風景とか、そういうことを言葉にできればと思います。
F) ナルシスティックに、自分に酔った表現はしたくありません。私は、それをしがちです。うずくまるだけなど、自我を殺して表現したいと思います。前にいわれました。いい声に酔っている。いい声を聴かせようとしている。愚かな話です。お客様は見ていられないでしょう。あるいは、ばかだなと思って、それ自体を見せ物と感じてくださるか。ナルシスティックだから、トロッタの集客に苦労しているのではありませんか? 他人の舞台を見て、酔ってるなと感じる人がいます。それは私です。人の舞台にみにくさを感じるなら、私はその十倍のみにくさを発揮していると思った方がいいでしょう。
G) 以前、ビデオを作っていた時に思いました。撮る対象がなくなれば、自分を撮ればいい。自分のからだこそ、最も豊かな素材である、と。ナルシスティックな考えかも知れませんが、真実だと、今も思っています。しかし、私はダンサーでも役者でもありません。いうなれば詩唱者です。肉体を売り物にはできません。しかし、自分のからだが素材だと思えば、ありのまま、鍛えてもいない姿で、人前に出て、からだが発する声音を、ありのままお聞かせしていいと思います。それが、即興ということでしょうか。つまり、何にも頼らないということ。舞台で生きていればいい。準備は苦しいですが、舞台は、ありのままいればいいのですから、楽しく、楽であって、いいと思います。
即興は、現在形の表現です。現在しかありません。現在の自分だけを素材にできます。何百年も前の楽譜を頼りにして音を出すのではありません。考えてはいけません。自問しますが、あなたは考えて生きていますか? 何も考えないで生きているはずです。それを見せればいいと思います。ただし、舞台で現在を生きていなければ、何の意味もない表現です。現在と向き合うことです。
六日間、連続公演します。できるかなと思います。しかし、毎日生きているのですから、上の考えに立って、毎日即興す=生きればいいと思いました。できるはずです。昼間はいつもの仕事をして、トロッタの準備もして、夜になったらボッサに行って、即興する。それを繰り返せばいいのではないでしょうか。実際、そうしなければ、例えば朝から斎戒沐浴して夜に備えるなど、私を取り巻く状況が許しません。もちろん、上野さんとの時間を過ごすために、新たなお客様と向き合うために、舞台で生きるために、準備をします。
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