WEB版FIGARO Japonの書評で、歌人、穂村弘氏について書くことにした。
小学館文庫に、今月の新刊として入ったエッセイ集、『もうおうちへかえりましょう』を取り上げる。
その本自体、新刊なのに、新宿の大きな書店にない。あるところもある。何軒か回ったが、品薄であった。
改めて、彼の人気ぶりを実感した。
『もうおうちへかえりましょう』に加え、エッセイ集の『世界音痴』と、第一歌集『シンジケート』を購入。
私は彼の歌を、おもしろいと思ったことがない。
最近作に『絶叫委員会』という評論があるが、これも、さほどおもしろくなかった。おそらく、彼の愛読者は、こういう書き方に笑っているのだろうというのが読め、読めたとたんに気持ちが冷める。
そんな、おもしろいと思わない穂村弘なのに、どうして書こうとするのか。
「花魂 HANADAMA」についての思考が関係している。歌とは、何か。その考えの延長上に、自然に、穂村弘氏が登場した。(先に買った『昭和萬葉集』には、穂村弘は収められていない。最後の別巻が出たのは昭和55年、1980年だから。彼が角川短歌新人賞の次席になったのは1986年、昭和61年。この時の受賞者は、『サラダ記念日』の俵万智。第1歌集『シンジケート』が刊行されたのは1989年、昭和64年。昭和である。後世、改めて『昭和萬葉集』が編まれたら、穂村弘は入るだろうし、人気ぶりを見れば、入れなければおかしい)
岡井隆氏の『私の戦後短歌史』に、ここ五年間は、穂村弘の時代だった、という言説があった。本当にそうなのか。わからないが、少なくともそこまでいわせるだけの状況があることは間違いないだろう。私のように、別におもしろくないと思う者がいても、穂村弘は受け入れられている。彼に、そうなりたい願望があるかどうかは別問題である。
本当に、そのように高評価される歌人なのか。知りたい、確かめたいと思った。
彼の歌には、時代が反映されているはずだ。時代のできごとを詠まなければならないことはない。気分でもいい。
私が穂村弘本人で、「花魂」に出るなら、短歌を詠むだろう。詠むに値する短歌であるかどうか、見極めたい。
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