花魂 HANADAMA

花魂 HANADAMA
花とやもり チラシ

2010年9月1日水曜日

上野雄次さんとの打ち合わせ、など *9.1記(9.2補遺)

毎週水曜日は、朝9時からのギター、11時30分からの歌と、レッスンが続きます。
13時から、谷中ボッサにて、上野雄次さんと打ち合わせをしました。15分ほど遅刻しました。

即興ということに関する、上野さんの、ひとつの見解。

〈完成を目的としない〉

1983年か4年だったと思いますが、即興ダンサーの田中泯氏と共演しました。一か月、毎日踊り続けるうちの一日、共演のひとりに選んでいただいたわけです。何をしたかというと、伊福部昭氏の音楽が流れる中、私は45分間、語り続けました。彼は踊り続けました。語りの内容は、まったくの即興です。それが、私が初めて行った、即興表現でした。

しかし、その何か月か後、今度は一人で即興の語りを行い、無残に失敗しました。言葉が、出てこなかったのです。
それ以来、自分にとっての即興とは何で、どういうことなのか、自問自答してきました。
その失敗が、私にとって、表現の原点になっています。
ひとつの結論として、私は即興に向いていないと思っています。
向き不向きは誰にでもあるので、別に恥ではありません。表現の形、その人の表現によって、向き不向きというより、しようとすることは違いますし、違わなければならず、何でもできる人などいるわけがありませんので、私は即興に向かない、それでいいと思ってきました。
即興で詩を詠む人にも会いましたが、自分の表現ではないと思ってきました。
それができることを、うらやましいとも、すごいなとも思いません。私の言語表現とは、まったく違うところを向いています。
そんな私は、「花魂 HANADAMA」では、即興を行います。
まったくゼロからの即興ではありません。私なりの即興です。
理由については、後で述べます。

*(以下、補遺)

田中泯氏との共演の後、ひとりで行った即興での語りが、無残に失敗したと書きました。
そのことの心的後遺症があるのかもしれません。
それを払拭した時、私なりの、今の私なりの即興表現ができるかもしれません。

田中泯氏と共演し、成功したかに見えた即興の語りですが、あれは、ただの講演、口演というだけのもので、表現だったのかなと省みています。

なぜ、「花魂」で即興を行うのか。
ひとつは、意味の世界から抜け出る必要を感じているからです。
詩唱は、意味を伝えるものでしょうか?
あるいは歌も、意味を伝えるものでしょうか?
舞台上からは意味が伝わらなくてもいいように思います。
心が伝わった後、会場で配られた詩集を、家に帰ってからひもとく。その時に新たな感興がおこればいいのでは?
芝居でも映画でも、観ながら、いちいち意味を考えたりしません。まず全体を、とらえるのではないでしょうか?
女優がきれいだったとか、画面に映った空が青かったとか、役者が語るたびにつばきが飛んでいたとか、そんなことを感じながら観ているのです。意味は後で考える。いえ、考えようとも思わず、ふと、心に浮かんでくるものでしょう。

上野さんは、完成をめざさないものと、即興の、ひとつの定義を行いました。
私なりに考えるところがあります。
それはまた書くとして、「花魂」で即興を行う理由は、意味の世界を脱するためです。

0 件のコメント:

コメントを投稿