花魂 HANADAMA

花魂 HANADAMA
花とやもり チラシ

2010年9月18日土曜日

三日間のこと *9.15 - 9.17(9.18記)

以下、twitterに書いたことである。twitterから引用するのは変だと思うが、大きなことだったので、ここに書いて補足する。
一見、「花魂 HANADAMA」には関係のないことである。しかし、短歌、和歌ということには、「花魂」で何をするかを考える過程で行き着いている。だから、ここに書く。表現するとはどういうことか。私はどういうつもりで表現しているのか。それを短時間だがつきつめて考えるきっかけになった。



歌人のこと 9.15(*9.18記)

穂村弘氏の『短歌の友人』を、書評の参考に読んでいる。(*書評するのは彼のエッセイ集『もうおうちへかえりましょう』)ショックなことが書かれていた。「他ジャンルの人の短歌の〈読み〉については、定型観がどうとか〈読み〉の軸がどうとかいう以前に、『何かがわかっていない』『前提となる感覚が欠けている』という印象を持つことが多い」私もそうなのだろう。(*ここでまず思ったのは、他ジャンルの人にわかっていないということは、読者の〈読み〉を信じていないのか、ということ。それなら発表する必要などないし、本を買ってもらおうなどと思わないことだ)

穂村氏は、自作の歌(*第一歌集『シンジケート』)に対し、人間性をも否定されるほどの言葉を歌人から投げつけられたのだが、それは短歌というジャンルでは容易に起ることで、音楽や映画、小説などでは、そこまでの対峙はないのではと想像している。いや、同様の例はいくらでもある。(*穂村氏の想像力がその点に及ばないのが不思議だ。彼の考えの根本に、他ジャンルの人と自ジャンルの人という、完全な区分けがあるらしい)『短歌の友人』は、とにかくショックな本だ。(*他ジャンルとか自ジャンルとか、そういう区分けをする人がいることがショック。他人への想像力が、〈読み〉云々を含めて不足していることがショック)

穂村氏の歌人意識に驚く。彼は自分を歌人だと確信している。私はビデオ作家ではなかった、詩人だと他人は認めているか? 私は評論家ではなかった、私は小説家ではなかった、私はギタリストでも歌手でもない、詩唱者などと他人は認めているか?(*穂村氏の態度の前では、私は何でもない。それを思い知らされたことがショック。何者でもない私が、当面、「花魂 HANADAMA」をしようとしていることがショックである) 

私はライターだが多ジャンルの人のライティングに、わかっていないなどとは死んでも思いたくない。私はライター意識などない。そんなものは恥ずかしくて持ちたくない。上手な文章、わかった文章になど意味はないと思っている。真情をどこまでこめられるか。そのためには下手な文章になってもいい! (*真情をこめたら下手な文章になるのではないか? 真情がスタイルにおさまるはずはない)

穂村氏は、何者でもない私に対しナイフ(*匕首--あいくち--と書きたいところだ)をつきつけた。何者でもない者として、私は「花魂 HANADAMA」で、即興詩唱をする。何者でもないから。詩唱をすることでしか、当面、生きていけない。ジャンルの意識などどこにもない。持ちたくもない。持てない人間はどうするか? 答えはわかっている。 (*テロに走るしかないだろう。テロリストは、何者でもない人である。私のテロは、他者へのそれではない。自己へのテロである)

〈補;以下はtwitterに書いた文章ではない〉
穂村氏の同書には、普通の人と歌人というテーマの文章もある。書き出しは詩人・谷川俊太郎氏が、普通の人(一般市民、庶民、市井の人)とつながっていたいし彼らの言葉で書きたいと思って来たと発言したこと。歌人の意識は、谷川氏がいうよりなお普通であり、普通であることが大歌人の条件と、わざわざ穂村氏はいう。しかし、谷川氏の発言はもちろん、この命題自体を私は好まない。一般市民の普通さなど、どの口から指摘できるのか。市民は普通であって普通じゃない。詩人も歌人も、普通ではないし普通である。こういう区別の仕方自体、私は拒否する。私が最も好まないもの、「選民意識」。事実は、ただそこに、人がいるだけだ。(*他人を普通だとか普通じゃないとか、自分を普通であるとか、そういう発言をすること自体が、すでに普通である)

考えてみれば、初めに書いた穂村弘氏の言葉。他ジャンルの人は短歌をわかっていないといものだが、取るに足らない。例えば八百屋のことを八百屋以外の人がわかるか? わかるわけがない。誰も他ジャンルのことはわからない。穂村氏が私のことをわかるはずはないし、私も、歌人ではないからではなく、そもそも、穂村氏のことをわからないし、歌についてはわからない。自分を卑下するのではなく、それは事実。いうまでもない。そして穂村氏は、わざわざ書くまでもない。読む私は、ことさら反応することもない。そもそも、八百屋も歌人もライターも、他人にはわかってもらえないということを前提に生きている。わかってもらえないが、どうするか、わかってもらえないが、それとして生きていくしかないじゃないか、ということを自覚するのが人間ではないのか。



何もできず 9.16(*9.18記)

穂村弘氏『もうおうちへかえりましょう』書評を出す。
twitterにはいろいろと書いたが、書評では、その思いと別に、歌人という存在について書いた。歌人は、自体を詠む存在である、と。その思いに嘘や誇張はない。twitterに書いた思いを経て、書評を書いたということだ。「その思いと別に」というのは、私的感情とは分けて、ということ。私的感情をむき出しにするのは、好きではない。むき出しにしていると思う人がいるかもしれないが。
赤染晶子氏の芥川賞受賞作『乙女の密告』について、今日のうちに書評を書いて出そうとしたが無理だった。しかし、できるだけ書く。一日に二冊は無理なのだろうか。いや、単に考えがまとまっていないだけ。この日はまったく音楽ができず。「日々花いけ」もできない。



五度目の練習 9.17(*9.18記)

朝、赤染晶子氏の『乙女の密告』書評を出す。
「日々花いけ」を2つ。
谷中ボッサからメールが来る。搬入について、など。少しずつ本番が迫っている感。連絡しなければ。
四度目の練習。1時間、何も使わずに何を語れるか、どこまでできるかを試す。
思いがけない展開になった。月の都に行くカップルの話。駅前で配っているチラシに、月の都行きバスの案内があった。半信半疑で応募すると当選して、深夜のバスに乗り込む。すでにたくさんのカップルが乗っている。目を覚ますと本当に月の都に来ていた。月の都のライブハウス、月の都の寺などへ行く。そこであらわになる、男と女の、本当の気持ち。ふたりは、もとの町に帰れるのか?
 物語が生まれた。原稿用紙に向かってもコンピュータに向かっても、生まれなかっただろう物語。
 反省点。花が全篇をおおうことはなかった--「花魂」のための詩唱なのだから、もっと花を意識すべきだったか?--しかし、ライブハウスの場面に、花の詩を詠んでいる女を登場させた。物語の象徴的な場面ではあったと思う。
 とにかく、一時間、語り続けることはできた。それは不可能ではない。詩的かどうかは別。詩唱かどうかは別。しかし、詩的、詩唱ということは、私なりのスタイルがあるので、誰に何をいわれても問題ではない。次の練習では、物語ではない詩を意識したいと思う。試みよう。
 以下、気をつけたいこと。
 即興に馴れないこと。何かしていればそれで即興、表現になるなどとは思いたくない。自分がこれまでに立ったことがない、ぎりぎりの淵で表現したい。
 前にした話を、もう一度するのはいいことか悪いことか。月の都の話など、たいへん魅力的である。次に話せばもっとよくなるかもしれない。悪くなるかもしれない。しかし、その世界をもっと見たいと思う。見るためには、語るしかないだろう。(*これは重要。未知の世界を見たいから、作家は書くのである)ただ、前の物語があるから続きがあるので、お客様に知ってもらうなら、前の話を語らないとわからない。これは、なぞることだ。私が知りたいだけなら、ひとりで続きを語ればいいわけだが。
 いずれにせよ、このように、あれこれ思うこと自体が即興らしくない。何も考えずに語り出せばいいのかもしれない。

 清道洋一氏と会い、打ち合わせの後、ギターを聴いてもらう。
 深夜、「日々花いけ」を1つ。これでもまだ追いついていない。眠くなって、文章までは書けなかった。

0 件のコメント:

コメントを投稿