花魂 HANADAMA

花魂 HANADAMA
花とやもり チラシ

2010年9月19日日曜日

五度目の練習の反省 *9.18(9.19記)

午前7時より喫茶店で仕事。8時過ぎ、清道洋一さんと会う。私のMacintoshを貸して、彼が自作の曲を再生、保存する件。
新宿へ行き、買い物をする。喫茶店へ。
サイトに出ているヤマビルの記事に、よみふけってしまう。
五度目の練習をした反省点を整理する。先の記述と重複するが、まとめておく。

a) 詩唱のテーマは、1時間、何のテキストもなしに何を語れるか、どこまでできるか。
これまでの練習では、できは悪くても、即興の方が緊張感は高い。テキストがあると、聴いている方はわからないが、詠んでいる当人は緊張感が薄まってしまう。どうしても、ああ、用意したものを詠んでいるなという、対比の気持ちが生じるからか? トロッタのように、テキストや楽譜のみを前にしていると、決してそんなことはなく、即興的な詠みもできているのに。同じ舞台で、どちらも即興的な緊張感を作らなければならないということかもしれない。
b) 『新古今和歌集』の一首をもとにする。

ながめつつ思ふもさびし久かたの月の都の明けがたの空

思いがけない展開になった。月の都に行くカップルの話が、自然に生まれた。机の前でひねり出そうとしても、生まれて来ないものだと思う。即興の宿命だが、綱渡りだ。何も出て来なかったらどうするのか?
b-1) 駅前で、月の都行きバスのチラシをもらったのが、物語の始まり。抽選に当たって、月の都へ行く。電車にしようかと思ったが、『銀河鉄道の夜』の真似になるので、とっさに変更。
b-2) 寒い寒いと、同じ言葉を繰り返す。これをつなぎにする。寒いといって縮こまり、着物を頭からかぶり、すっと上半身を起こすと、月の都に着いている、という展開。休憩でもあり、共演者にも注意を向けてもらう方法になる。これは二回か三回、行った。
b-3)私は本当のことをいっているのか?(うわべだけでなく他人に対しているか、八方美人ではないか、本気で人に向かっているか、隠し事を他人にしていないか、私の言葉は本物なのか、本物の言葉で詩を書いているのか、etc...)という疑問が、カップルの話として物語に生かされた。疑問を、自分のこととしてまともに語っても、表現としては生(なま)過ぎて駄目である。
b-4) 月の都のライブハウスは、おもしろいと思った。上野雄次氏が相手の本番なら、月の都のギャラリーとか、月の花の展覧会場とか、そういうことになったかもしれない。ライブハウスで、即興の詩唱と即興のピアノによるライヴが行われている。「しろがねの花に頬ずりして」という、ライヴの詩を語り出してから、ライヴハウスという設定にしたのだと記憶している。先に詩があった。物語は後から生まれた。こういう行き方でよいと思う。
b-5) 月の都の寺もよかったと思いたい。月の都に行ったのだから、観光地を出そうと思った。頭に浮かんだのは、築地の本願寺であった。もっと詳細に描写してもよかった。神様の前であらわになる、男と女の、本当の気持ち、姿。ふたりは、もとの町に帰れるのか?
b-6) 月の都のカフェも、よかったのではないか? 自己満足ではなく。ここまで来て、ちょうど1時間。ついにふたりは、地上の街に戻れなかった。戻そうと思っていたのだが、もちろん、その方法は思いついていない。2時間詠めば、戻ったかもしれない。あるいは、今度は火星に行くとか。よく連続テレビドラマである手法だ。終わりのない旅をさせるのである。

c) 反省点。花が全篇をおおうことはなかった--「花魂」のための詩唱なのだから、もっと花を意識すべきだったか?--しかし、ライブハウスの場面に、花の詩を詠んでいる女を登場させた。物語の象徴的な場面にはなったと思う。

d) 1時間、語り続けることはできた。不可能ではないとわかった。詩的かどうかは別。詩唱になっているかどうかは別。しかし、詩的、詩唱ということは、私なりのスタイルがあるので、誰に何をいわれても問題ではない。次の練習では、物語ではない詩を意識したいと思う。

以下、気をつけたいこと。
e-1) 即興に馴れないこと。何かしていればそれで即興、表現になるなどとは安易に思いたくない。自分がこれまでに立ったことがない、ぎりぎりの淵で表現したい。
e-2) 前にした話を、もう一度するのはいいことか悪いことか。月の都の話など、たいへん魅力的である。次に話せばもっと洗練されて、よくなるかもしれない。しかし洗練されて、悪くなるかもしれない。月のその世界をもっと見たいと思う。見るためには、語るしかないだろう。(*これは重要。未知の世界を見たいから、作家は書くのである)ただ、前の物語があるから続きがあるので、お客様に知ってもらうなら、前の話を語らないとわからない。これは、なぞることだ。私が知りたいだけなら、ひとりで続きを語ればいい。いずれにせよ、このように、あれこれ思うこと自体が即興らしくない。何も考えずに語り出せばいいのかもしれない。
e-3) 身体を、もっと使ってもいいだろうか。立ってもいい。なぜ、しゃがんでいるのかという問題がある。しゃがんで、膝をつき、手をつくと、床から力をもらえる気がする。楽な気持ちにもなれる。正直、立つよりも、しゃがんだり、座っている方が、言葉が出てくる。今度は、立って、どこまでできるか、試してもいい。
e-4) 言葉は考えながら発しているので、すぐには出ない。より遅くはなっても、より速くはできない。となると何で変えるのかといえば、声の大小など。
e-5) その場の気配を、無理に感じようとするのではなく、自然に感じる、自然に聴く。気配とかけあいができないか。
e-6) のべつまくなしにしゃべるのではなく、上野氏の花を集中して見てもらう時間を作る。「寒い」のくだりなどで、これは、できていたと思う。
e-7) 落ち着いた中に、時々、感情が激する瞬間がある。往々にして、静かである。爆発できないか。静かな詩唱も激しい詩唱も、聴かせどころになる。物語にしない場合、どこまでできるか? しかし物語にしないと、初めから決めるのは即興ではない。物語になるなら、それでもいい。
e-8) 言葉は考えながら発しているので、すぐには出ない。より遅くはなっても、より速くはできない。となると何で変えるのかといえば、声の大小など。変化をつけて、お客様の想像力をかきたてたい。
e-9) 次回は、物語でなく展開してみたい。短い詩を、例えば1分のものを60篇、詠むというようなこと。

午後7時、新宿で待ち合わせ、徳島から上京の、小西昌幸さんと会う。小林淳さんも来る。小林さんが書いた『ゴジラの音楽』(作品社)の、出版記念の意味もある。
帰宅後、ギターの練習。
明朝の、練習スタジオを予約。9時から、高田馬場駅に近いGATEWAYにて。

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