9.8(9.9記)
朝、家を出ようとすると、郵便受けに、岡野弘彦氏の『折口信夫の晩年』が届いていました。
この本を、これまでに何度、読んできたかわかりません。
一時期は、二十冊くらい持っていたと思います。もちろん、同じ本を、です。本屋で見るたびにほしくなり、買ってしまいました。よくいえば、常に新鮮な気持ちで向き合っていたわけです。
しかし、今思えば、決定的な読み間違いをしていたと思います。『折口信夫の晩年』を、私は戦後の折口について、同居して身の回りの世話をしていた岡野氏が書いた、一種の回想的ドキュメントだととらえていたのです。
『横尾忠則 365日の伝説』『伊福部昭 音楽家の誕生』を書く時の私は、『折口信夫の晩年』を意識していました。
横尾氏の本は、ドキュメントとして書きました。横尾氏のように、次から次へと行動して、さまざまなことをする個性に対しては、同時代、同時間を共有する者として、ドキュメントの書き方が最も有効だと思ったからです。横尾氏と行動した一年を忘れることはできません。
伊福部氏の本は、物語りとして書きました。音楽家は、どのようにして生まれるのか。その過程を、物語りたかったのです。伊福部氏の語りがあり、私の取材があり、作品論がありと、書き手として生きてきた私が、1997年当時に持っていたすべて注ぎこんだものになっています。
岡野氏の『折口信夫の晩年』も、ドキュメントかも知れず、物語かもしれず、あるいは回想記かもしれません。しかし、これは岡野氏が、歌人としての自分の生き方、考え方を述べた本です。折口を語りながら、岡野氏は、自分を語っています。歌についても語っています。そんなことは当然の話で、別の個性が折口と同居し、死に至る戦後の姿を書いたなら、まったく別の内容になったでしょう。
そこに気づきませんでした。
届いた本の題簽に、ごきぶりの糞の跡がありました。汚れですが、これもまた、歴史です。ごきぶりが生きた証であり、本が生きてきた証です。
高円寺に行って朝食を採り、これから仕事をしようと思ったところ、ある方が現れました。会いたくありません。最近は朗読をしていますか? とお訊ききになるので、朗読はしていません、音楽をしています、と応えました。あなたのしていることは朗読に見えたけれど。していることは朗読でしょうが、総体の表現としては音楽です、と言葉を添えました。レッスンを休んでまで仕事をしようとしているのに、ここでおしゃべりをしている暇はないという思いが、ストレートなものいいとなりました。しかし、本心です。
橘川琢さんに、トロッタ12のチラシ300枚を届けました。橘川さんが作曲中の詩曲『黄金の花降る』には、上野雄次さんも出演されます。
甲田潤さんと会い、合唱曲『シェヘラザード』第一楽章の詩をすべて渡しました。
清道洋一さんから連絡があり、明日、長谷部二郎先生を交えて会うことにしました。トロッタ12の曲『イリュージョン illusion』の打ち合わせです。
甲田さんと会った帰り、吉祥寺の古本屋をめぐるなどしているうち、『花魂 HANADAMA』について、思い至ったことがありました。この方法で、即興詩唱できるかもしれない、ということです。
短歌、和歌について、最近ずっと考えています。感じようとしています。
日本語では、短歌や和歌は、歌です。浪曲は語りでしょう。歌謡曲も歌劇も童謡も民謡も声楽曲も、みんな歌です。能も、
日本人にとって、歌とは何でしょうか。メロディがある、声の表現ですか?
短歌をただ平板に詠んでも、あれは歌であり、朗読ではなく、朗詠、朗唱です。短歌を語るとはいいません。
私は学問をしようとしているわけではないので、こんな定義はどうでもいいのです。自分にとって歌と思える表現をしていくだけです。
「花魂 HANADAMA」が、その確信を得る機会になりそうです。
夜、書評のために、最も新しい芥川賞受賞作、赤染晶子さんの『乙女の密告』を読み始めました。ほぼ読んだところで、そのまま寝てしまったのですが。
「日々花いけ」の準備だけして、この日のうちには、ついに生けられませんでした。
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