朝9時、高田馬場駅のGATEWAYスタジオへ。六度目の練習です。
このいただきに来て萩の花ざかり
この山頭火の句から出発する。(*途中で思ったが、仮にこの句を使った場合、上野雄次氏の花に萩がないといけないだろうか?)今日の練習のテーマは、物語にしないで、短い詩なり歌なりを次々に詠んでいく、というものだったが、やはり物語になってしまった。
本当の、いただきで、萩の花を見ている女と、その女を見ている男。ふたりは五年間、同棲していたが、ふたりは決して、お互いを見ていなかった。同じもの、例えば萩の花を見ていながら、別々のものを見ていた。別れざるを得なかった。女はある朝、男に黙って出ていったのだ。しかし、それから20年、男も女も、かつて別れたふたりのことを思っている。抱いてほしいと思いながら抱いてもらえず、ひとり、暮らしている。まず男が語り、女が語り、という繰り返し。途中で、短い句らしきものをいくつか詠み、当初の目的に少しでも添わせようとした。
話自体は悪くないが、男と、女の物語。こればかりである。少しは違うものができないのか?
やはり、手をつき、腰をおろし、座り、という態勢になった。これがいちばん語りやすい。ただ、これが詩唱といった場合の、お客様の期待する、“詩”を唱うものであるかどうか。ぜひ、次回は詩を詠み続けたい。
反省点。
a-1) ある作曲家のCDを何枚か持って行く予定で準備もしていたのだが、完全に忘れた。音楽に反応しようと思っていたのだが。それを実行していたら、物語にならなかったかもしれない。ただ逆に、反応しただけという憾みが生じたかもしれない。どちらにしても、即興には、反応という性質がある。いや、即興でなくとも同じか。
a-2) 完全に立って、という姿勢でまだ行っていない。立って詩唱するとどうなるか? これも次回の課題にしよう。
a-3) 意識は、前だけに向かっている。集中は、もちろん必要だ。だから眼を閉じて詠んでいる。ただ6度目は、山頭火の句を折りに触れて繰り返したため、それがスタイルになり、忘れてはいけないという意識が先に立ち、思い出そうとしたため、時々、集中が切れた。もっと大胆に、間違えてもよかったか。変奏と思えば、山頭火と違う言葉を口にしてもいいはずだ。
a-4) あいかわらず、静かな詠み方になる。大声で、とか素早く、ということはできない。それがいいかどうかは別として、試してみたいことである。
a-5) 物語を象徴させるようの即興の俳句らしきものをないくつか詠んだが、あれはもっと続けるべきである。倍はあってもよかった。ほどほどのところで止めるのはよくない。出て来なさそうだから止めたのだが、それでもなお詠もうとする姿を、観客は見たいかもしれない。
a-6) 依然として、上野氏とのからみは、どうしていいかわからない。どいう状況が起るかもわからない。一度でもしてみればわかるだろうが。何が起こってもいいように、気配を感じられる身体にしておきたい。物語を紡ぎ出そうとするあまり、気配を感じていなかったのではないか。GATEWAYスタジオでしている意味が、あまりなかった? どこでしたも同じだったかもしれない。
a-7) もっと、大胆さと繊細さの間を行き来する、ダイナミズムがほしい。今のままでも悪くない。しかし、悪くないなどという評価は、決していいものではない。いっそ、むちゃくちゃだった、という方がいい。
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練習後、Ben's Cafeに、トロッタ12のチラシと一緒に、「花魂 HANADAMA」のチラシも置かせてもらう。
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花ばさみの切れが悪くなったので、砥石で研いだ。分解できるかと思って試したが、無理だった。切れは元通りになる。
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準備期間の三分の二が過ぎた。この間、考え方は進んだと思う。実際の練習も重ねてきた。もっと練習したいと思う。しかし、詩作は進んでいない。“ヤマビル、つまり『花骸--はなむくろ--』新篇ができない。途中から、即興でよい、「花魂 HANADAMA」については即興詩の方がよいと思ってしまったから。詩を書く情熱が消えた。
「日々花いけ」のすべてに、即興で短い詩を詠もう。本番前日、とかに? それは、本番で詠む詠まないにかかわらず、私のつとめのように思われる。
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