ここ二、三日、気分が停滞していました。「花魂 HANADAMA」についての考え、何をするかがまとまらず、またトロッタのことも気になり、結局はまとまって何もできない時間が続いていました。とりつくろっても意味がないので、二、三日分をまとめて書きます。多少の前後があると思います。
9.5(9.7記)
朝、早く起きられません。疲れがたまっているのでしょうか? そんなことはいっていられないのですが。
発送作業を行っている〈art-Link 上野-谷中〉の皆さんに、「花魂 HANADAMA」のチラシを届けました。その帰り道、上野古書のまちに立ち寄って、岡野弘彦氏の第二歌集『滄浪歌』購入。第二歌集、第三歌集もありましたが、一度に買う勇気がなく、後回しにしました。
『花骸 -はなむくろ-』新篇を書き続けようとしましたが、うまくいきません。
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9.6(9.7記)
「詩の通信V」第3号の詩を書きました。久しぶりで、発行日に書けました。しかし、発行できません。
短歌新聞社に行き、岡野弘彦氏の第一歌集『冬の家族』の文庫版を買いました。高円寺駅前なので近いのです。
上野雄次さんに、トロッタのチラシ、「花魂」のチラシ、〈art-Link 上野-谷中〉のマップなどを送りました。
上野古書のまちに予約をしておき、岡野弘彦氏の第三歌集『まほろばの歌』、第四歌集『天の鶴群(たづむら)』を購入。続いて、『昭和萬葉集』も購入しました。全20巻+別館が、たった2,000円です。
帰途、岡野弘彦氏の中公文庫版歌集『海のまほろば』を買いました。ここには『冬の家族』『滄浪歌』『まほろばの歌』がすべて収められています。貴重です。
いろいろ考えましたが、岡野弘彦氏の歌を詠むことは、目下、しないと思います。氏の歌集を買ったり、『昭和萬葉集』を買ったりしましたが、これはこれとして意味があるので、後悔はしません。岡野氏の歌を詠まない理由は、氏の歌集の解説にある、飯島耕一氏の文に触れたからです。
飯島氏が、岡野氏の戦争体験を詠んだ歌を批判していました。
「こんな歌がもっとも新しい『海のまほろば』にもあるのは一問題だろう。『苦しゑ』とここにあるのはもはや嘘である。戦中は苦しかったという思い出に酔うべきではない。『苦しゑ』もくりかえされるとうとましくなる。現在にもっと苦しんでいる人がいるはずです。もっとも若き日に戦争があったので、忘れることはできないのは当然である。しかし思い出ともっとたたかった、その結果の歌が見たい」
実に好意的な批判だと思いました。
やはり、私は現代人であるべきです。
現代人として感じていることを詠み、歌うべきです。
もちろん『新古今』だって現代人として詠むので、詠んでいけないわけはないのですが、岡野氏の歌ですら、それは他人の表現であり、私から遠いものがあります。私の意味を離れて、歌う者になろうというのが意図だったのですが、結局は岡野氏の意味を歌うことになるので、やはり完全には自由になれないでしょう。
この疑問を拭い去れれば、詠むかと思いますが。
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しかし最大の問題は、『花骸-はなむくろ-』新篇がまったく進まないことです。ヤマビルがいるという市ケ谷駅のそばの土手にも行ってみました。駅のスターバックスで書こうとしましたが、インスピレーションが湧きません。何も降りてきません。無理に作っているような感じです。新篇というところに無理、わざとらしさがあるのでしょうか。
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9.7記
『昭和萬葉集』全20巻+別巻が届きました。明日の到着だと思っていたので驚きました。たいへんな仕事だと思います。
飯島耕一氏が岡野氏に寄せた文章を頭に置きながら、現代人が現代に何を考えていたのかを読みたいと思います。「花魂」を、私は、現代の表現にしたいと思っています。
夕方から、ひたすら、甲田潤氏との共同作業である、『シェヘラザード』第一楽章の詩作を行いました。何とか形にしました。明日、彼に渡します。しかし、仕事ができず、焦りが湧いてきました。「花魂」についても、考えることはできないままです。
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