花魂 HANADAMA

花魂 HANADAMA
花とやもり チラシ

2010年9月15日水曜日

二度目と三度目の練習 *9.13−9.14

二度目の練習 *9.13(9.15記)

忘れずに書いておかなければならない。9月12日(日)、二度目の練習をした。一時間という時間を、私は生きられるのか?
寄せられた花の詩文として用いたのは、『新古今』の一首。秋に感じた風、というテーマ。私自身の詩としては、再び、花の三部作を用いる。この日は、三作すべてを読んだ。途中、詩を破る場面では、裏面に印刷してあると、裏を詠むまで破れないという簡単なことに初めて気づく。裏面には印刷しないこと。それと、『新古今』や「詩の通信」など、印刷された文字が小さいと、暗くなると詠みづらい。コピーして、大きな文字にしておくこと。
カラオケルームでの練習だったので、別室の歌い声や廊下を人が歩く音などが聴こえる。そうした声や音に、反応したいと思った。
そうした声音に対する反応の言葉が出た。即興詩としては、日々の暮らしにもとづく情景を詠み、一時間が経つころには、その情景を物語として詠み終えることができたように思う。思わぬ結論が出たようにも思う。これは、トロッタなどで、できた曲を詠っているとわからないことだ。自分の心が、ひとつもふたつも大きくなった気持ちである。しかも、麻薬などの力ではなく、意志を持って行い、その上で大きくなった。もちろん、お客様がいたとして、その方々の心を動かすものになったかどうかは別。また、私は意志の力を絶対視しているわけでもない。
また、そうした即興表現が私にふさわしいかどうかはわからない。しかし、できたと思う。できないよりできることは大切だ。即興表現で得た感触を、トロッタに生かすことができる。それは、譜面を前にしながらも、心を一回り、二回り、大きくしてゆくことである。心は即興なのだ。ということは、できた詩を詠むことも、非即興ではないといえる。ただ詠んでいるのと、詠みながら、詩以外の世界に行く。それができさえすれば、書かれた詩を詠んでいるから非即興なんですよと、へりくだらなくてよい。そうしたものとして、「花魂 HANADAMA」の詩唱を性格づけることができる。



歌人の言葉 *9.13(9.15記)

穂村弘氏のエッセイ集『もうおうちへかえりましょう』『世界音痴』を読み続ける。第一歌集『シンジケート』も読む。そのため、どこへも行けず。
私は、頑な言い方だが、穂村弘氏の歌を、特におもしろいと思わない。多くの人が支持しているのだから、彼が力をもっていることは間違いないだろう。必要としている人がいることも確かだ。それでも、エッセイ集を読みながら、思ったことがある。書評も、その点を書くことになる。それは、歌人の言葉ということ。歌人の言葉、文章が持つ力、ということ。
日々、言葉について考え、感じている者が書く文章、言葉で表現している者の文章、それは、表現していない人の文章とは異なる。私自身が感じている。あまりいうとわけがわからなくなるが、言葉で、表現しようとすらしていない。言葉を生きている感覚。上手な言葉など書く必要はない。下手でいい。生きているか死んでいるか。それが問題だ。死んでいてもいいだろう。それは生きることの反対だから。とにかく、総合的に、言葉の世界にいる、ということ。
穂村弘氏がそうであることは、氏に対する世間的評価とは別に、私も感じた。
「花魂」で私が発する言葉も、生きたものでありたい。いや、それは願望ではなく、可能だと確信できる。ただ、その先、でき得れば表現のレベルにまで昇華させた。穂村氏だって、エッセイと短歌は違うだろう。いや、彼は違わないのか?

夜、西荻窪の古書店、音羽館に、トロッタ12と「花魂 HANADAMA」のチラシを置かせてもらう。



魂が降りて来る *9.14(9.15記)

東京音大民族音楽研究所に、トロッタ12のチラシを置かせてもらいに行く。近所の古書往来座に、トロッタと合わせ、「花魂 HANADAMA」のチラシも置かせてもらう。店で、池田弥三郎の『日本文学の“素材”』(88・日本放送出版協会)を購入。かつて何冊も持っていた本であり、池田弥三郎氏には、多くのことを教わった。池田氏の著作には懐かしさがある。今は一冊も持っていない。『日本文学の“素材”』に、こんな記述があった。
「花を見るというのは、生け花みたいなものにしても、意味があります。民俗学では、床の間に生きているままの花を飾るということは、そこへ魂を招くことなのだという解釈をしております」
「生け花というのは、生けておく花、生きたままでそこに置いておく花です。枯れたのでは駄目だ−−この頃は造花の生け花なんかもあるようだけど−−ほんとうに生きている花を持って来て、そこに据えるのです。これは、月見の時に、銀月を出して月を招いたのと同じように、花をそこに置いて、そこを目ざして人間の魂がやって来る。つまり霊魂をそこに迎えるために花を飾ったのだというのが、今の華道のもととなっているのです。単に美しいから見るというのは花見の一番もとにあるすがたではない。もう一つ前に、そこに霊魂を呼び迎えるということがあって、そこから生け花ということも起ってきているわけです」
この見解が正しいかどうかはわからない。上野雄次氏の考えとは違うかもしれない。違っていてもいい。私も、池田弥三郎の考えのみを支持するわけではない。第一、私は民俗学の徒ではない。ただ、魂を生けた花に呼び寄せる、あるいは魂が生けた花に降りて来る、という考えはおもしろいと思うし、上野氏の花には、その気配が濃い。だから私も「花魂」と名づけたのだろう。

阿佐ヶ谷のカラオケルームにて、三度目の練習を行なう。時間がないので、この日は30分にとどめる。一時間の半分としての30分。寄せられた詩文としては、『工藤直子詩集』より、「花」という短い詩を選んで詠み、そこからどこまで即興詩唱できるか、試した。
30分という時間の短さを思う。入り口で終った感じだった。気をつけなければならないのは、だらだら続けるなら、いくらでもできるということ。完成度を問題にするなら、むしろ短い方がいい。しかし、見苦しさも含めて生きていることと思うなら、「花魂」においては、1時間は必要である。

『花骸-はなむくろ-』新篇を、再び書き始める。

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